■lap09-"勇者達の肖像・vol.1"/ロニー・ピーターソン-
2002.08.09


実は'76年富士以来のモーターレーシング・ファンである筆者の本業はミュージシャンであり、'93年に生意気にも自分名義のソロ・アルバムを制作させて頂いた。そしてそのCDのブックレットには"スペシャル・サンクス"と言う欄がある。これは言わば"このCDを制作するにあたり、感謝の気持ちを"とする相手の名前が並ぶ項目である(当然、義務では無い)。そしてその欄に、筆者の好きなレーシング・ドライバーの名前を幾つか上げさせて貰った。その当時も何かで書いた記憶があるのだが、何故か自分がフェヴァリットとするレーサーは、残念ながら他界してしまう事が多い。別に"命を顧みないドライビング"とかが好きなわけでは無い。単なる偶然だ、と思いたい。しかし、その後アクシデントで亡くなってしまう事が非常に多いのだ。もちろん、こんなに悲しい事は無い。そして、決してその人達を忘れる事は出来ない。.....そんな自分の中で特別な記憶の中にいるレーシング・ドライバーを今後シリーズで紹介して行こうと思う。まず最初は、筆者が最初に"ハマった"F-1ドライバー、"スーパー・スウェード"ことロニー・ピーターソンだ。

筆者がロニー・ピーターソンに憧れた理由は非常に簡単である。彼のトレード・マークとも言える、ブルーとイエローに塗られたヘルメットのバイザーに付けられた小さな"ヒサシ"。まるで帽子(cap)のようなあのデザインがとにかく格好良かったから、なのである。その後イタリア人のミケーレ・アルボレート(皮肉な事に彼もまたレース中に事故死した)が憧れのロニーのヘルメット・デザインを真似た、と言う位、当時のモーターレーシング・ファンにとってロニーのヘルメット・デザインは特別なものだったのである。ホワイト&ブルーのタイレルや、JPSカラーのロータスのコックピットに収まる長身のロニーとそのヘルメットはとても良く似合い、それは(筆者がレースを観始めた頃から順に)マーチ-タイレルーロータスとチーム/マシンが変って行っても、一貫して変らぬイメージで観る者にアピールし続けた。そして、もちろん実力も際立っていた。ベングト・ロニー・ピーターソンは'44年2月14日、スウェーデンのオレブロにアマチュアのレーサーだった製パン屋の父の息子として生まれ、10代になってからモトクロスに熱中し、17歳から始めたカート・レースでは5度のスウェディッシュ・チャンピオンに輝く。彼の家は決して金持ちとは言えなかったが、レース狂の父親とその友人のサポートで、レーシング・マシンそのものを自分達で制作する程であった(実際、ロニーの父は自作マシンでスウェーデンのF-3を戦っていた)。'66年には前年のブラバムF-3を購入、改造を施してフォード・エンジンを搭載したマシンでF-3デビュー(成績は3位)。その後'68年にスウェディッシュ・チャンピオンを獲得するまで自国F-3を戦い、'69年に欧州へ進出、当時ロニーの友人であり最大のライバルでもあったレイネ・ウィセールと激戦を繰り広げる。そこへ、新たにチームを作りF-1/2/3へ打って出ようとする新興のマーチ社が2人に目をつけ、どちらか1人を将来のF-1ドライバーとして育てる前提でチームに加入させようと引き抜きを画策する。そして、それは「次回モナコF-3で勝った方を起用する」と言う決断となり、ロニーとウィセールは共に最前列からスタート、ウィセールはクラッシュしてリタイアし、権利はロニーのものとなった。そしてロニーはマーチの設立メンバーであるアラン・リースに呼ばれ、彼に"マーチのF-3に乗りたいか/同系列チームのF-2(マシンはブラバム)に乗るチャンスもあるが興味はあるか/将来のF-1プロジェクトに入れるかも知れないがやる気はあるか"と聞かれ、実は当時"全く英語が解らなかった"ロニーは、後に「彼が何を言ってるのかさっぱり解らなかったよ。でも、"フォーミュラワン"と言う言葉は解ったから、とにかく"イエス"と答えたんだ」と告白している。そしてロニーはF-2とF-3を平行して戦い、その才能を徐々に開花させて行ったのだが、モントレーでのレースで大クラッシュし、火傷と打撲で病院のベッドに横たわっている所へマーチ社の人間が訪れ、ロニーに翌'70年のF-1デビューを告げた。ロニーは体中の痛みに悶絶しながらも喜びでいっぱいになった。

かくして'70年、ロニー・ピーターソンはマーチからF-1デビューを果たす。が、当初の予定ではエース、クリス・エイモンのNo.2としての契約だったのだが、ジョー・シファートが多額の持参金を用意してロニーのシートを奪ってしまう。そこでマーチは約束を守る為に、当時はワークス・チーム以外にも同じマシンでのプライベーターとしての参戦が可能だった為、そちらのシートを用意。デビュー戦となったモナコ・グランプリで7位フィニッシュと言う、プライベーターとしては脅威の成績を収める。翌'71年と'72年は堂々とマーチの正ドライバーとして参戦し、その速さに目を付けたロータスのコーリン・チャップマンが異例の金額でロニーをマーチから引き抜いた。そして'73年、王者エマーソン・フィッティパルディとジョイントNo.1としてロータス72を駆り、ポール・リカールで行われたフランス・グランプリで初優勝。結局この年15戦中3勝/9ポール・ポジションを獲得し、トップ・ドライバーの仲間入りを果たした。ロニーのドライビング・スタイルは極めて"豪快"で、かつてのヨッヘン・リントと比較されるような激しいドリフト走行を得意とし、常にマシンが横を向いている事から"サイドウェイ・ロニー"とあだ名される程であった。が、そのせいかクラッシュも少なく無く、当時の彼の評価は「穏やかで飄々とした人柄だが、マシンに乗った途端に全ての理性を失う男」と言うものであった。そしてそれは'76年にロータス77の戦闘力不足からシーズン途中でチームを離脱してマーチへ復帰する、と言う失敗を犯し、また翌'77年のチームとしてタイレルを選んだのも失敗となる理由ともなった。何故なら、ロニーには正しくセットアップされたマシンで誰よりも速く走る事は可能だったが、マシンの"開発ドライバー"としての才能は全く無かったのである。走っている最中のマシンの状態をチームに的確に伝えたり、深い知識や理論の裏付けが求められる仕事は"マシンに乗った途端に全ての理性を失う男"には出来なかった。当然、2年目となったタイレル・チームの6輪車の開発はロニーには不可能であり、結局'78年にはロータスへと復帰する。だがそれは、完璧な開発とセット・アップを行うNo.1ドライバー、マリオ・アンドレッティのサポートとしての契約であった。アンドレッティの施した"完璧なセッティング"のロータス79で、第13戦オランダ・グランプリまでにロータスは4度の1.2フィニッシュを達成、既にコンストラクターズ・タイトルも獲得していた。ロニーは契約を守り、アンドレッティがリードしている時は2位をキープし、アンドレッティが後にいる時は前を譲り、そしてアンドレッティがリタイヤしたレースでは堂々優勝していた。ロニーはこの年のアンドレッティのチャンピオン獲得に最大限に貢献し、チャップマンの猛反対を押し切って翌'79年の"エースとして"のマクラーレン移籍を決意した。ロニーは翌年こそ、自らがタイトルを狙える位置にいた。そして迎えた第14戦イタリア・グランプリ。だが、このレースは史上最も"不可解な死亡事故"を引き起こす。

ポール・ポジションを獲得したのはロータス79のアンドレッティ。だがロニーのマシンはブレーキトラブルが発生して5位、中団3列目のグリッドからのスタートとなり、しかも朝のウォーム・アップでクラッシュしてしまう。結局決勝レースはスペア・カーである前年マシン、ロータス78に乗り換える事になった。グリッド上ではこのレースでチャンピオン決定となる可能性を持つアンドレッティが多くのプレスとチームのお偉方に囲まれ、フォーメイション・ラップ直前にチャップマンだけが後方の -唯一アンドレッティのタイトルを阻止出来る点数の持ち主でもある- ロニーへと歩み寄り、彼の肩をポンと叩いた。各車がグリッドを離れ、ゆっくりと最終コーナーのパラボリカを回って来る。通常、各車のグリッドにいるマーシャルが戻って来た担当車のボードを全車揃った所で降ろし、それを確認したスターターがスタートの合図を行う。ところが、まだ4列目(予選7〜8位)までしか停止していない状態で、突然レースはスタートしてしまった。つまり、それ以外のマシンは停止状態からでは無く、走行中からの加速となり、実際最交尾のマシンはまだ最終コーナーを130km/hで回っている途中に、突然スタートを知らせるグリーン・シグナルが点灯したのだ。何人かのマーシャル達はスタートの興奮と轟音に気を取られてボード提示を忘れ、スターターはボードが揃ってもいないのにスタート・シグナルのボタンを押したのだ。そして、モンツァ・サーキット独特の、コーク・ボトルのように突然幅狭くなる第1シケインで悲劇は起きた。まだローリング中だった5列目のリカルド・パトレーゼのアロウズは、当然停止状態からのスタートとなった前車より良いダッシュを見せ、第1シケインまでに何台かを抜こうと激しくマシンを左右に振った(ただでさえ彼のスタートはいつも限界ギリギリだった)。その結果、パトレーゼはジェームズ・ハントのマクラーレンに追突、コントロールを失ったマクラーレンに横からヒットされる形でロニーのロータス78が200km/hでバリアに激突。更にそこへ最交尾スタートのビットリオ・ブランビラのサーティーズが230km/hで突っ込んでしまう。ロニーのロータス78は炎に包まれた。が、これがもし本来のロータス79であったなら、マシンの構造上、燃料タンクが露出していない為に出火はしなかった筈だったと言われている。マシンを降りたクレイ・レガゾーニ、デレック・デイリー、そしてハントの3人が燃え盛るロータス78に駆け寄り、勇敢にも炎の中へと飛び込んで行った。曲がったマシン前部をハントが折り曲げ、レガゾーニがコックピットからロニーを引っ張り出した。幸い頭部はガソリンを被っておらず、意識もハッキリとしていた。ところがこのレースには専属の医師が来ていなかった為、救出されたロニーは17分もかかってやっと現場に到着した救急車でミラノの病院に運ばれた。症状は火傷と両足の骨折で、最悪の場合片足の切断はあり得るが、命に別状は無いだろうと発表された。ところが翌9月11日、ロニーは死亡した。医師の説明は「手術開始と同時に併発症が発生して血液の凝結が始まり、腎臓、肺、脳等への血液循環が困難になり、手のほどこしようが無くなってしまった」と言うものだった。アンドレッティはロニーを見舞う為に病院を訪ね、そこで初めて同僚の死を告げられ、その場で泣き崩れた。フィッティパルディをはじめ何人かのドライバー達はパトレーゼの運転を危険だとして次戦の出場停止を訴え、レガゾーニは現場に医師が来ていなかった事とマーシャルの救護がノロマだった事に激怒した。ニキ・ラウダは"明らかな医療ミス"として医師団を告発した。そして、「何故スターティング・グリッドに全車が戻って来る前にスタートが切られたのか」と、全世界のマスコミがイタリア・グランプリ主催者を非難した。こうした幾つかの不可解な事柄が重なり、ロニー・ピーターソンは死亡した。同時にそれは、同僚アンドレッティのチャンピオン獲得が決定した瞬間でもあった。.....ブロンドの髪を優雅になびかせる長身のハンサム・ガイ、ロニー・ピーターソン。グランプリ出走123回、優勝10回。享年34歳であった。




「こんな事になって、いったい何を喜べと言うんだ?。」
-ロニーの死によってチャンピオンが決定した直後/マリオ・アンドレッティ-


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