| "F-1"と言ってまず思い浮かぶもの、もしくはF-1を象徴するもの、それはフェラーリである。セナでもなけりゃエクレストンでも無く、ロータスでも無いしホンダでも無い。それは、フェラーリだけが"不滅"だからだ。少なくとも、1950年のグランプリ発祥時から唯一今日まで走り続けているチーム、そして厳密な意味でシャシー/エンジンを同一会社で造るただひとつのチームとして600戦以上に出場、150もの勝利を上げ13回のコンストラクターズ・チャンピオンを獲得。もっとも、数字の上ではもっと短期間で高い勝率を上げたチーム/マシンもたくさんあった。が、その記録よりも"存在"そのものが、その"狂おしいほど紅い"マシン・カラーが人々を虜にしてしまう。フェラーリを応援する地元イタリアの熱狂的なファンは"ティフォージ(熱病患者)"と呼ばれ、勝っていても負けていても、常にその人気は不動のものだ。賛否両論あるだろうが、日本で言うところの"阪神タイガース"に近いものを感じる。 スクーデリア・フェラーリは、元々創始者であるエンツォ・フェラーリ(1898年誕生)がディレクターを務めていたアルファロメオのレーシング・チームから独立し、'34年に興した独自のチームである。ちなみにフェラーリのシンボルとなっている跳ね馬のマーク-カバリーノ・ランパンテ-は、'23年、第一次世界大戦時のイタリアの国民的英雄、"撃墜王"ことフランチェスコ・バラッカが自らの愛機に描かれたシンボル・マークをレースの優勝記念としてエンツォにプレゼントしたものであり、今日までフェラーリの象徴、そしてイタリアの象徴として全世界で知られている。が、そんなフェラーリも財政難から'72年にイタリアの超大企業"フィアット"に買収され、マセラッティ、アルファロメオ等とともにフィアット・グループのひとつとして現在に至っている-ちなみに、かつてレーシング・ドライバーだったエンツォがフィアット・チームへ加入を迫ったが断わられた、と言うエピソードがある-。が、イタリア、いや世界中にとってフェラーリはフェラーリでしか無く、前述の通り'50年のグランプリ創生期から(正確には第1戦には間に合わず、第2戦モナコ・グランプリからの参戦だが)レースに出場している唯一のレーシング・チームとしてその地位を不動のものとしている。'50年のグランプリ発祥当時、F-1マシンはナショナル・カラーであった。フランスはブルー、イギリスはグリーン、そして我が日本のホンダも'60年代に参戦した際は日の丸カラーであった。そして、フェラーリの赤だけはその当時からスポンサー・カラーへと移行した今も変らない。いや、変る事はもう許されない。まさにF-1はフェラーリであり、レースはフェラーリ無くしては始まらない(少なくともイタリア国民にとって)ものなのだ。そして年間17戦で行われるグランプリに於いて、イタリア伝統のサーキット"モンツァ"でのイタリア・グランプリに加え、フェラーリの地元マラネロから程近いイモラ・サーキットに於いて隣国の名称を借りた"サンマリノ・グランプリ"と、イタリア国内で2つのグランプリが行われているのもスクーデリアの揺るぎ無い人気を如実に物語っている。 フェラーリの記念すべき初勝利は参戦2年目となる'51年イギリス・グランプリで、4.5l/12気筒エンジン搭載のマシンでフロイラン・ゴンザレスによってもたらされた。当時は強敵アルファロメオやマセラッティ、メルセデスらが台頭し、フェラーリ初のチャンピオン獲得は翌'52年に伝説のドライバー、アルベルト・アスカリが達成。'56年にはランチアのF-1撤退によってランチアを丸ごと買収、天才ファン・マヌエル・ファンジオを擁して'56年を、マイク・ホーソンによって'58年のタイトルを奪取。が、この'58年はルイジ・ムッソ/ピーター・コリンズと言う2人の優秀なドライバーをレース中の事故で失った年でもあった(タイトルを獲ったホーソンも3ヶ月後に死亡)。'60年代に入るとクーパーがミッドシップのクライマックス・エンジンでレースを独占、ところがエンツォはフロント・エンジンの優位性を疑わず、時代に取り残されて行く。が、'61年のレギュレーション変更で再び"エンジン至上主義"となってからは'61年フィル・ヒル、'64年ジョン・サーティースとチャンピオンを獲得するが、開発と言う点ではロータスやブラバム、マクラーレン等の"軽量コンパクトなエンジン"を使用し、空力に着目し始めたライバル達に大きく遅れを取る事になる。が、エンツォは「エンジンこそマシンの命、他は付属品でしかない」と、V12エンジンへのこだわりをより一層深めて行く。その一方で'61年には"フェラーリ最悪の悲劇"と言われる死傷事故が発生、ウォルフガング・フォン・トリップスがイタリア・グランプリで観客を巻き込んでクラッシュし、観客14人と共に死亡。この辺りからフェラーリは長い低迷期へと入るが、'74年にルカ・モンテツェモーロ(現フェラーリ社長)がレース・ディレクターに就任、翌'75年には"帝王"ニキ・ラウダによって11年振りにタイトルを獲得、デザイナー、マウロ・フォルギエリの才能開花の成果か'77年もラウダが接戦を制し、'79年にはジョディ・シェクターが初タイトルを奪い、時代は完全に"V8エンジン+空力勢vsフェラーリV12"の図式となった。が、ここまでどうにかライバル達との戦いで結果を出して来たフェラーリも、'80年代からは"暗黒の時代"と呼ばれる時期に入る。"英雄"ジル・ビルヌーヴとディディエ・ピローニの確執、そしてビルヌーヴの死。ルネ・アルヌーの反逆、V6ターボ・エンジンの失敗。そして.....エンツォ自身の死だ。'88年8月14日、マクラーレン・ホンダがセナ/プロストを擁して年間16戦中15勝をあげた年、90歳のエンツォは静かに息を引き取った。その年のイタリア・グランプリ、マクラーレンの16戦完全制覇を阻む勝利がゲルハルト・ベルガー/ミケーレ・アルボレートのフェラーリ1.2フィニッシュで奇蹟的に達成された時、世界中のティフォージは狂気乱舞した。翌'89年にターボ・エンジンが禁止されて全車NAとなり、新加入のデザイナー、ジョン・バーナードがF-1初のセミ・オートマチック・ギアボックスを開発。トラブル続きでタイトルこそ獲れなかったが、'90年にはアラン・プロストがチャンピオン争いをくり広げた。ところが、この'90年代はホンダ/ルノー/メルセデス等の巨大・メーカーに完敗。エンツォ亡き後、フェラーリは"勝てないと誰かが責任を取ってクビになる"、通称"お家騒動"を何度となく繰り返し、チェザーレ・フィオリオやクラウディオ・ロンバルディと言った有能(だった筈の)イタリア人指揮官が次々と更迭され、チーム態勢がまったく安定しないまま惨敗の日々を送り続ける。そして'96年、フェラーリはかつて無い冒険に出た。ラリーの常勝チーム、プジョーの監督であったジャン・トッドを迎え、'94、'95年とベネトン・チームで連覇した天才ドライバーのミハエル・シューマッハー、テクニカル・ディレクターのロス・ブラウン、デザイナーのロリー・バーンをまとめて引き抜いたのだ。この"イタリア人でも呆れる"少々強引なやり方で、'99年にようやく'83年以来のコンストラクターズ・タイトルを獲得、'00年には'79年のシェクター以来のダブル・タイトルを奪取。21年間と言う、途方も無く長い低迷期を経て、ようやくフェラーリは完全復活を遂げたのである。そして'02年、シューマッハーの3年連続のタイトル獲得と同時にスクーデリア・フェラーリの通算勝利数は150を超え、今やF-1は完全なる"フェラーリの時代"となった。 フェラーリは、イタリアの誇りである。そして、不思議な事にフェラーリはイタリア人ドライバーを必要としない。例え誰が乗っていようとも、その跳ね馬が描かれた真紅のマシンが疾走していればそれで良い(これは、外国人選手の多いサッカー/セリエ-Aに於いても同様に思う)。更に、不思議なもので他チームのマシンに乗ったイタリア人ドライバーがフェラーリの前を走る事を、フェラーリ・ファンのイタリア人/ティフォージ達は許さない。が、決して彼等もイタリア人ドライバーを拒否しているのでは無く、いつの日か"スクーデリアにふさわしい"イタリア人ドライバーが現われるのを待っているのだ。'85年にミケーレ・アルボレートがタイトル争いに絡んだ活躍を見せたが、'92年のイヴァン・カペリ起用が失敗に終わり、それ以降スクーデリアはイタリア人ドライバーを指名すらしていない(シシリー生まれのジャン・アレジは国籍上あくまでも"フランス人"だ)。'52年のアルベルト・アスカリが最初で最後の"イタリア人・フェラーリ・チャンピオン"であり、今やスクーデリアはドライバーからスタッフに至るまで世界中から有能な人物を集めて成り立っている。だが、当時を知る老いたファンも、その子供や孫達も、いつの日かフェラーリの血が流れる男が登場し、サーキットを駆け抜けるのを待っているに違い無い。
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