■lap06-"ホシノとナカジマ"/前編-
2002.07.19


丁度前回のlap05で日本のモーター・レーシング事情について書き、締めくくりに"日本一速い男"のフレーズが出た。では、"日本一速い男"と言って頭に浮かぶのは誰か。恐らくコイツは'70年代組と'80年代組でまっぷたつに別れる。いや、もちろん2人に限定されるものでもなく、生沢徹だ、長谷見昌弘だ、風戸裕だ、浮谷東次郎だ、いやトラだ、と言う意見もあるだろう。が、実際に"日本一速い男"のキャッチ・フレーズを掲げる(本人の本意では無いだろうが)事が出来るのは星野一義ただ1人であり、世界に(F-1に)挑戦した、と言う意味では中嶋悟をおいて他にいない。が、ことF-1に於いてこの2人の明暗はくっきりと別れてしまった。日本のモーター・レーシングを語る上で絶対に欠かせない2人、ホシノとナカジマ。今回はまず、"暗"のカードをひいてしまった星野一義と言う男を見つめ直してみる。

星野一義は'47年7月1日、静岡県静岡市生まれ。子供の頃からバイク好きだった彼は、実は4輪レース以前に2輪レーサーとしてのキャリアを持ち、17歳でカワサキチームのプロ・ライダーとなり、'67年、19歳でモトクロス全日本チャンピオンまで獲得している。'69年、22歳の時にニッサンのオーディションを受けて4輪に転向し、"チェリーの星野"の異名を取り活躍。が、当時の日本はいわゆるオイル・ショックの真っ只中、当然モーター・レースなど社会から全く認知されない時代だった。それでも'74年に資金難を乗り越えFJ-1300(現在のF-3)に挑戦、デビュー戦のポール・トゥ・ウィンで一躍脚光を浴び、ここでの活躍が認められて全日本F-2へ。'75年には早くも全日本F-2王座を獲得。同時に、当時日本のレース・ファンに人気だったGC(グランドチャンピオン)シリーズにも参戦。星野はこのまま'79年までF-2のタイトルを5年連続で守り、'70年代から'80年代前半にかけての国内のレースでは文字どおり"無敵"となった。だが、その頃の星野はいつも何かに怯えているような眼をしていた。特にレース前の緊張は凄まじく、食事も喉を通らなかったと言う。「あの頃はね、どんなに勝ってても『負けたらもう飯が食えなくなる』って思ってた。だから、『絶対負けるもんか』って、それだけを考えてた。いや、そうでもしなきゃ1人でシートに座ってもいられなかったんだよ」国内無敵を誇りながらも、星野は決して現状に甘んじる事は無かったのだ。

その星野に、素晴しいチャンスがやって来た。そう、筆者がモーター・レーシングと出会った、あの'76年F-1イン・ジャパンだ。この日本初のF-1レースには4人の日本人ドライバーがスポット参戦した。和製コンストラクター、コジマの純国産F-1マシンKE-007に乗る長谷見昌弘、サーティーズの高原敬武、ウイリアムズの桑島正美、そして型落ちのタイレル007でヒーローズ・レーシングから出走の星野。結局桑島は契約の問題で予選のみで解雇され、長谷見/高原/星野の3人が決勝に出走。大雨の中、予選21位だった旧型マシンの星野は素晴しいドライビングで一時3位まで駆け上がり、世界の度肝を抜く。「スタート前、タイレルの最新型P-34に乗るジョディ・シェクターが『おい新人、周回遅れにされる時インとアウトのどっちからが良いか、決めておいてくれ』と言って来た。そのシェクターが3位を走ってたんで、アウトからブチ抜いてやったんだ」しかし、雨が上がりコースが乾き始めた頃、星野がタイヤ交換の為にピットへ戻ると、信じられない事にそこにはドライ・タイヤの在庫が無かったのである。星野はただじっとコックピットに座ったままだった。メカニックが降りろと言っても、星野は降りなかった。後になって星野は「恥ずかしいけど、悔しくて涙が止まらなかったんだ」と告白している。が、星野は世界の大舞台で確かな可能性を見せた。シェクターはレース後星野に詫び、マリオ・アンドレッティやジェームズ・ハントら多くのトップ・ドライバー達が「雨の中では星野のラインを真似て走った」と告白している。星野一義、この時29歳。翌'77年の富士はコジマからニュー・マシンKE-009で出走、この時は予選11位と日本勢最上位を記録するが、マシンの熟成不足もあってレースは2周遅れの11位でフィニッシュ。そしてこのレースは6周目の"観客死傷事故"によって、富士での、いや当時の日本での最後のF-1開催となってしまう。星野のF-1もここで終わった。それは何故か。まず、星野がニッサンのワークス・ドライバーだったからである。そう、'80年代にエンジン・サプライヤーとしてF-1グランプリに復帰したのはホンダであり、逆にニッサンは業績不振も手伝って序々にレース活動を縮小して行った。ホンダは当時国内で星野の"最大のライバル"と言われた中嶋悟を擁し、'80年以降、国内のF-2王者の地位を不動のものにしていた。そして中嶋が34歳と言うギリギリの年齢でF-1のレギュラー・ドライバーへと進出した'87年、星野は既に40歳を迎えていたのだ。そして中嶋のF-1デビューで日本に"F-1ブーム"が起こり、その年星野は国内のF-3000、GC両シリーズを制覇。ありとあらゆるカテゴリーで星野は"狂ったように"勝ち続けた。いや、勝ち続けるしか無かったのだ。後に星野は「自分がもうF-1には行けないと解った時から、テレビも雑誌も、とにかくF-1と関係あるものは全く見なくなった」と語っている。そして、恐らく彼には"F-1は自分を見放した"と映ったのだろう。むしろF-1に敵対心さえ持っていたように見える。

「ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニが大怪我をした年('90年)の日本グランプリの直前、ベネトンのフラビオ・ブリアトーレが俺に言って来たんだ。『たったの500万円で良い。用意出来たら鈴鹿のレースに出してやる』もちろん俺は断わった。『おい、俺はプロのレーサーだ。それが例え2万円でも、そっちが払わなきゃ乗らねえ』ってね」このエピソードが、星野と言うレーサーを如実に表わしている。基本的に、今も昔もスポット参戦のドライバーがシートを得る条件は"持参金"である。これは、今日までの日本人F-1ドライバーの歴史を振り返って見ても決して珍しい事では無いし、事実今シーズンもミナルディのアレックス・ユーン、アロウズのエンリケ・ベルノルディらはギャランティを受け取るどころか、彼等のパーソナル・スポンサーの持込資金でチームが運営されているのが現状だ。だが、星野はその"欧州的な"やり方を好まなかった。あくまでも"プロフェッショナル"である事にこだわった(補足するが、"500万円"と言う金額はあまりにも破格の安さだ)。もしこの'90年日本グランプリに、鈴鹿を知りつくした星野が出場していたらどうなっていただろう(ちなみに結果は1位ネルソン・ピケ、2位はナニーニの代役ロベルト・モレノ、つまりベネトンの1-2フィニッシュであった)。

その後、'90年代後半まで国内トップ・フォーミュラである全日本F-3000選手権で現役だった星野は、最後まで"日本一速い男"であった。'91、'92年は国内グループCチャンピオンを獲得、同'92年には伝統のデイトナ24時間レースに於いて、ニッサンR91CPで国産車/日本人では初の優勝と言う快挙を成し遂げる。'93年、全日本F-3000チャンピオン獲得。'98年にはニッサンR390を駆り、栄光のル・マン24時間レースで3位表彰台をゲット。'99年からは最多優勝(国内/海外含め、通算130勝)ドライバーとしてGTCに参戦。もはや、誰も星野の偉業には追いつけないだろう。現在はフォーミュラ・ニッポンで本山哲の乗るチーム・インパルの監督として、星野は今もサーキットで戦っている。




「俺やミカ(サロ)がどんなに頑張っても、ホシノサンだけは絶対に抜けなかった。多分、今でも無理だと思うね」
-'99年F-1ハンガリー・グランプリにて/星野を"初めて"F-1観戦させた男、王座争い中のエディ・アーバイン(フェラーリ)-


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